2022年の年末の話。
東京・府中市美術館で、諏訪敦さんの個展「眼窩裏の火事」をみた。
諏訪さんは、絵画の、そして「見る」という行為の概念を拡張しつづけている画家だ。
その写実性ゆえに「写真のよう」と形容される彼の作品は、実は写真とその本質においてかなりちがう。
写真を援用することを否定しているわけではないがと前置きしながら、「ものの表面を視線で這うように照合させながら描く行為と、単に写真を模写して描くことは、まったく仕事の性質が違います」「凍りついたような瞬間を描こうとしているわけではなく、描いている一定の時間の幅を圧縮したようなもの」と言っている(諏訪敦+大竹昭子「絵にしかできない」カタリココ文庫)。
彼の仕事を特徴づけているもののひとつが、時間、空間を要する取材だ。ある人物を描こうとしたら、その人の生い立ちや社会背景をリサーチし、生きてきた環境へ足を運び、完成形の絵には描かない周辺のものまでスケッチする。
たとえば「恵里子」という作品で彼は、結婚直前に事故で亡くなった恵里子さんの両親から、娘を蘇らせてほしいと依頼される。手がかりをもとめ、遺品を見る、取材をする、両親をスケッチする、さらには、遺された手の写真から職人に義手をつくってもらう、というところまでする。
できあがった作品は、写実的という意味ではたしかに「写真のよう」かもしれないが、一筆一筆に、表面的には見えない時空間の幅と、画家の意図がある。
ところで、諏訪さんと最初に会ったのは、2009年頃、東京のギャラリーでだった。GR DIGITAL III のカタログ写真を撮ったと自己紹介すると、カタログの写真を見て、ほしいと思って買いましたと言われ、すごくうれしかったのを覚えている。
今回の展覧会で久々に再会し、作品を拝見し、あらためて思ったことがある。
彼の作品は、制作に莫大な時間を要する。作品に添えられる言葉も、おそらく時間をかけて考えられた、含蓄のあるものだ。
それらは、高い頻度でアップロードすることを求められ、わかりやすいものが票を集める写真投稿サイトやソーシャルメディアに、およそそぐわない。スマートフォンで素早くスクロールされ、「コンテンツ」として消費されていくそれらサイトの性質と、彼の作品のそれは、対極にある。
真摯に時間と空間をかけて作品に取り組むこと。その尊さ。
よりスピーディに写真を撮影・共有できるよう進化しているカメラGRで、瞬間を捉える表現を追求しながら、一定の時間の幅や空間の厚みも表現もしたいとあらためて思わされた。
Photos taken with GR IIIx
安達ロベルト(Robert Adachi)
人がどのようにつながり、創造するかに常に関心を持ち、十代で外国語、プログラム言語、絵画を学び、大学で国際法と国際問題を学び、22歳で作曲を始め、32歳のとき独学で写真を始める。GR DIGITAL III、GXR、GRのカタログ写真・公式サンプル写真を担当。「GRコンセプトムービー」の背景に流れるオリジナル音楽を作曲。ファインアートの分野で国内外で受賞多数。主な出版に写真集「Clarity and Precipitation」(arD)がある。
www.robertadachi.com